( 2009年8月2日更新 )
早くも、夏休みだ。
夏休み、とは、お母さん達には全く逆で
「夏忙し」なんだろう。
学校や幼稚園に行っていた子供達が、
家にいるようになる。
私の住んでいるマンションも
子供であふれかえっている。
でもこれがお盆近くなると、
閑散としてくる。
子供達の多くが、田舎に行ってしまうからだ。
前回のインタビューに応えて下さったKさんも、
子供を産んでから、
子供を連れて、旦那様と一緒に、
新潟の親戚の家に遊びに行った。
Kさんの旦那様は、親戚づきあいを知らない人だった。
親類がほとんどなく、従って、親戚づきあいというものをやったことがないのだ。
Kさんも、基本的には「一人で大丈夫」というタイプで
親戚と関わることが必要だとは思っていなかった。
でも、子供ができたら、状況が変わってきた。
出産のお祝いをしてもらい、
いろいろなことを聞かれ、子供に構ってもらううちに
「気にかけてもらっているのだ」とわかった。
新潟への訪問で、旦那様も意外な反応を見せた。
楽しんでいたのだ。
木の電柱を見て「トトロが出そう」と感動したり、
畑を見て、「アスパラガスが伸びきるとこうなるんだよ」と言うと、
絶対信じなかったり、
段々畑を見て感動したり、郷土料理が大好きだったり、
親戚にもいろいろ声をかけてもらって、楽しそうだったり、
旦那も、そういうの、知らなかっただけで、結構好きみたいだったんです。
そうしているうちに、
子供がみんなによくしてもらえるかどうかは、
自分次第なのかな、と思いました。
別に特別なことをするんじゃないですが、
遊びに行ったり、何か送ってもらったら御礼にメールしたり、とか
そんな、普通のことなんですけど、
たとえば、連絡を取っているだけで、行ける場所が増えるし、
いろんなことが増えるんですね。
私は親戚づきあいとか苦手なので、
子供が生まれるまでは疎遠だったというKさんの話は
すごくよくわかる。
私は子供は産まないと思うけど
もし何かの間違いで子供ができたら
Kさんのようにできるんだろうか。
それは、わからない。
でも、Kさんの話は、すごくいい話のように思えた。
子供の母親になるということは、
もしかすると
子供にとっての母になるというだけのことではないのかもしれない。
それは
もっと大きなまとまりとしての人間のなかで
席がひとつ、うまれるような
そんなイメージの出来事なのかもしれない。
「社会的地位」というと、
仕事、職業のことがあたまに浮かぶ。
「家族」は、プライベートなものとして扱われる。
でも本当は、社会と家庭は「公と私」のように分けられるものではなくて
もっとつながったものなんだろうか。
だとすれば
「親になる」ということ、「子供を持つ」ということは、
子供と自分だけの出来事ではないんだろう。
赤ちゃんは、自分では何もできない。
なのに、こうして、不思議なことが起こる。
何もできない存在だからこそ、
周囲が動く。
動いたところに、人のつながりができたり、それが広がったりする。
そもそも人間同士がつながるのは、
一人ではできないことがたくさんあるからで
だとするなら
「何かができる」ということよりも
「何かができない」ということのほうが
人を結びつける力は、強いということになりはしないか。
なんでもできて、人に頼らないで生きる、ということが
昨今では、価値があると思われている。
誰にも迷惑をかけずに、全部「自己責任」というのが
礼讃されたり、目標になったりする。
力はあればあるほどよく、
マルチな才能ほどうらやましがられる。
なんでも、できるほうがいい。
みんな無意識にそう感じている。
自分が何かできないことを恥じたり、「なんの取り柄もない」と言ったりする。
でも、人と人とが繋がって社会を作る上では
「なにもできない」ことのほうが
力を持っているのだ。
そして、何ができるかとか、どんな才能があるかとかではなく
どういうふうに人と繋がっていけるのか、のほうが
ずっと、信頼できる。
それは、あたたかい力だ。
Kさんは私よりだいぶ年下だ。
でも、Kさんのほうがずっと社会的に大人だという気がした。
人と関係するということをムリせず受け止めて、
そこに、花の種を埋めて育てるみたいに、ゆっくりじんわり
なにかを成長させていっている。
外の方に。
子供を産むということは、
それ自体が一つの出来事だけれど
水面に滴をおとしたように、
まわりにどんどん輪が広がっていくのだ。
何もできない子供が
周囲の大人に強い影響を与えたり、育てたりするのだ。
話を聞けば聞くほど
それは、とても不思議な現象のように思える。
