( 2009年4月8日更新 )
前回に引き続き、Kさんのお話。
去年の2月に女の子を出産し、お嬢さんはすくすく育っている。
彼女は、子供を産んでから、
服の好みが変わった、と言った。
もともと、モノトーンというか、黒や白のシンプルな服が好きで、 
そういうものばかり着ていたんです。
自分の母親はもっとかわいらしい格好、
それこそピンクハウスみたいな格好をさせたかったらしいんですが、
私はそれがイヤで、いつもケンカしてたくらいです。
なのに、自分で娘を生んでからは、
明るい色のものやかわいいものを選ぶようになりました。
これを聞いたとき、
私は、以前、インタビューさせて頂いた
染や織物をやっている方のお話を思い出した。
その方は糸を染めて機織りをし、
着物用の反物をつくるお仕事をされていた。
着物を着るということについて、彼女は、こんな話をしていた。
着物っていうのは、洋服と少し違って、
人のために来ているところがあるんです。
サービスというか、
それを着ている人を見ている人が楽しむものなんですね。
着るものというのは、着てしまえば
自分自身の視界にはあまり入ってこない。
全体像など、鏡を見なければ見えない。
いったん身につけてしまえば
それを見るのは、自分以外の人々なのだ。
人は、無意識に、目を楽しませようとする。
鮮やかな色、美しい模様、
そういうものに、自然に視線を向ける。
私はファッションにはとんと関心が無く、
服を買いに行くこともものすごく少ない人間だが、
たまに、偶然ファッションショーを特集した番組などを目にすると
じっと見入ってしまう。
待ち合わせでも、いろいろな人の格好を見ているだけで、飽きない。
私も、見ることを楽しんでいるのだ。
おそらく、子供というのは
接するもの接するものみんな、
初めて見るもの、なのだと思う。
私たちの頭の中には、物事を認識するためのテンプレートができていて、
何かを見ても、そのテンプレートに当てはめて解釈するようになっている。
車は車だし、家は家、木は木で、リンゴはリンゴだ。
頭の中に最初からそんな「意味」「型」があって、
どれに合致するか判断できれば、そこで関心が消えてしまう。
でも、子供の場合は、そういう型は頭の中にまだ、ない。
だから、鮮やかな色やハッキリした形をまず、捉え、
そこから頭の中に型を作っていこうとするのだろう。
そのために、ものすごくよく見るし、
ものすごくよく聞いているし、触って、なめている、という気がする。
母親の服装というのは、子供の目に入っている。
子供がそれに関心を持つかどうかは別として、
とにかく、目に入る。
Kさんは、意図的に「子供のために明るい色を」と思ったのではない。
でも、なんとなく、
子供に見せたいものを自分も見ていたい、と
感じるようになったのかな、と思った。
着るものは、普通は、
「自己表現」の手段とされている。
自分がどう思われるか、がそこに現れる。
できるだけいい自分を見せようとか、
できるだけ好きになってもらおうとか、
おかしい人だと思われたくないとか、
人と違っていたくない、目立ちたくない、など
いろんな方針があるだろうけれど、
基本的には、人の目線という矢印が
服を貫いて自分の中に入ってくる、という観念で、
人は服を選んでいる。
でも、本当は、服は、情報として出て行って、
誰かの頭の中に入るもので、
外側を向いている矢印でもあるのだ。
もちろん、服は、
似合わないよりは似合っていた方がいいだろう。
自分が好きでない服を着てブルーでいるより、
好きな服を着て明るい、自信に満ちた表情をしているほうが
ずっといいだろう。
でも、それより他に、
誰かに提供できるもの
というのもあって
そのために、服を選ぶということがある。
好きなチームを応援するために同じTシャツを着たり、
子供を喜ばせるために着ぐるみやサンタの変装をしたりする。
聞くところによると、
黒や暗い色というのは、人から自分を守るための色なのだそうだ。
黒い服を着ている人を前にすると、
緊張感を感じたり、防衛されているという印象を受ける。
でも、明るい柔らかい色のものを着ている人の前に立つと、
こちらも、優しくおだやかな、オープンな気分になるのだそうだ。
病院の待合室のカベの色とか、
ホテルのロビーの色などは
それを見る人々の心の状態を想定して選ばれている。
服もまた、相対する人のなかに、様々な心象をつくり出す。
Kさんは、
「子供のために」と理詰めに考えてそうしているのではないのだ。
自然に、そういうふうになる。
それがとても面白い。
Kさんは、赤ちゃんを出産した直後は、
子供をかわいいと思えるのかどうか不安で、大変な気持ちでいた。
ニュースで、幼児虐待などのニュースを目にするたびに、
このまま自分も虐待しちゃうんじゃないか、と心配になり、
1ヶ月検診のとき、思い切って助産婦さんに相談してみた。
すると、助産婦さんはこう答えた。
貴方は、自分の子供だからそんなに心配になるのよ。
申し訳ないけど、私は貴方の子供を、
そんなに心配できない。
なんか、やれるかも、と思ったんです。
子供をかわいいと思うとか、子供に愛情を持つとか、
そういうことが自然に、すぐにできるお母さんもたくさんいるだろう。
でも、すぐにはそうならないお母さんも、たくさんいる。
Kさんは、出産直後、病院の大部屋にいたが、
他のお母さん達もそれぞれ、
不安や心配で泣いたり落ち込んだりしていたそうだ。
だけどすくなくとも、
生まれてすぐにカワイイと思ったり、シアワセだと思えたりしなくても、
とにかくそのことで毛が抜けそうに心配になったり不安になったりする
という、その強い関心だけは、
どうも、どうしても、そこに厳然とあるような気がする。
それはたぶん、罪悪感や義務感、その他諸々の
人間として自然な思いに繋がっているのかもしれない。
しかしそのほかに、やっぱり、
子供に対する非常に強い関心と、
その子が自分にどうしようもなく結びついたものだ、という感覚は
絶対的にあって、
もしかしたら、虐待やネグレクトですら
その感覚から生まれるのかもしれない、とさえ思える。
ネグレクトは無関心になることであり、放置することだが、
基本的に、人間関係のうえで、
誰かが誰かを「無視する」というのは
ある種の強い意思表示だ。
無視は、無視するぞという強い意志がないとできない。
あるいは、もっと複雑な思いの絡まりによって、
やはり、痛烈に無視してしまっている、という気がしてならない。
決して「思いが少ない」のではなく、
むしろ、過去から背負ってきた多くの苦しい思いと、
子供への強烈な関心が絡まりすぎて、
どうしようもなくそうなっているのではないかと想像するのだ。
動物園の動物が育児放棄するのと、
人間が子育てを拒否するのとは、どこか、違っているような気がする。
私は専門家じゃないから、
とんでもないことを言ってるのかもしれないし
本当に様々なケースがあるのだろうけれど、
自分の子供を好きになれる場合も、好きになれない場合も、
自分の子供と他の子供では明らかに違っていて
自分の子供と自分には何らかのつながりがある、と
強烈に感じているものなのじゃないだろうか。
自分の服の好みまで、変わる。
私には、そのことが非常に面白く、興味深く感じられた。
子供が生まれて、生活が変わる、考え方が変わる、というのは
すんなり解る気がするんだけど、
「服の好みが変わる」というのは、とても意外で、
でも、よく考えてみると
子供を持つということがどういうことなのか、が
それによって如実に語られているような気がしたのだ。
もちろん、出産前と後で、同じスタイルのままのお母さんもいるだろう。
表現形は人それぞれだ。
でも、何かの形で、変化は起こる。
自分以外のものがそんなにも自分の近くに来るのだから
なにがしかの変化は、どうしたって起こってしまう。
人と人とは、一見、切り離されている。
でも、子供と、その子供が初めて接する、最も密着する相手のあいだには
へその緒のようなものが切っても切れない状態でつながっている。
それは、母性とか愛情とかそういうものではなくて
言語化できない、もっともプリミティブな人間関係で、
それは、相互に非常に強い関心を持ち合う、ということなのだろう。
その、相手への強い関心というのは
自分自身への関心と、シームレスに繋がっている。
これは、母と子のあいだだけじゃなくて
生まれたばかりの子供と、その面倒を見る大人のあいだに
かならず繋がってしまうものなんじゃないかと思う。
私もかつて、12歳離れた妹に、そんなものを感じたことがある。
彼女は赤ん坊で、私はまだ小中学生だったけれど
この子供になにをしてあげようかって
この子供は私とつながっているのだって
そういうふうに、感じていたのを思い出す。
あの感じは、ほんとうに不思議だ。


